平野啓一郎が原作の映画「本心」が公開されている。2019年から2020年にかけて地方新聞に連載されていた小説を単行本にして出版されたものだ。舞台は2040年代で生成AIが小説のキーになっていたが、映画では2027年の世の中に直されていた。生成AIは ChatGPT が一般にも使えるようになった昨年2023年に利用が進み、つい最近では ChatGPT を運営するアメリカの会社、オープンAIのサムアルトマンCEO(最高経営責任者)によると1週間あたりの利用者が3億人になっており、3か月前の2億人から急激に増えているということだ。未来小説も早送りしないと世の中の流れに乗り遅れてしまう。平野啓一郎は新しいテーマに取り組んでいる。
そして、新しい新刊本「富士山」が出版された。こちらは5つの短篇小説をまとめたもので、現在の日本に広がっているテーマを取り上げていた。
最初からすれ違っていた。
丸ノ内線で無差別殺人事件があった。襲われそうになった塾通いの小学生二人をかばって亡くなったのが五か月前にほとんど自然消滅していた相手だった。
婚期という強迫観念から婚活アプリで知り合ったのが彼で、東京から浜松まで行くのに富士山が見える窓側の席が空いているという理由でこだまを選択したことを理解できないでいた。オタクとそうじゃない人の間にはわかりあえない壁がある。その時点で交わり合うことがないすれ違いだった。会っていて不快な思いをしなかったというだけで、積極的な理由も見当たらないのに、後から気がついたその違いは次第に増していく違和感につながる。
通過待ちのこだまから見えた反対方向の新幹線には、登校しなければいけない平日にもかかわらず女の子が座っていた。その子は世界共通のサインで窓越しに助けてと言っていた。女児誘拐だった。説明しても理解できない彼を置いて、その子がいる反対側の新幹線に乗り込んだ。心配していた通りの事件だった。
結局、彼は一緒にこだまを降りてくれなかった。相性のいい相手だったらすぐには理解できなかったとしても彼女を心配して一緒にこだまを降りてくれたはずだ。瞬時にわかり会えるなんて簡単なことではないのだから、まず同じように行動してみようという覚悟が彼にはなかった。だから、通り魔事件のニュースに接した瞬間は加害者だと勘違いし、被害者だとわかっても、かつて知り合いだったというだけでしかなかった。それでもしばらく彼のことが頭から離れなかった。ああしたらよかったのかとか、こうしたらよかったのかとか。
二年後、彼と行くはずだった浜名湖のホテルに泊まり、帰りの新幹線は富士山側の席を取っていた。富士山がよく見えた。胸がしめつけられ、そして、富士山を見られてよかったと思った。でも、彼女はこの後、誰かと結婚できるのだろうか。その前に誰かと恋愛できるのだろうか。これから、彼女の人生がどうなるかという心配が余韻として残った。
「婚活」「わいせつ目的の女児誘拐事件」「子供のSNS利用」「公的機関職員の対応力欠如」という、いまの社会の問題点となるキーワードを駆使した作品だった。
アメリカで理不尽な扱いを受けていた海外駐在員は自身の問題で日本に呼び戻された時に周りに当たり散らしていた。羽田空港の蕎麦屋で彼の被害を受けたスタッフは、母親にその思いをぶつけてしまう。精神的にまいってしまった母親は同窓会の連絡に出欠の回答をわざと送らずに気を紛らわした。なんてつまらないのだろう。たった一人から連絡が返ってこない女性上司は嫌がる部下を遅くまで飲みに連れ回した。
アンガー・マネジメントができない海外駐在員、カスタマーハラスメントからスタッフを守れないどころか、責任をスタッフに押し付ける上司。本屋のビジネス書、あるいは自己啓発本のコーナーに並べられている本に書いてあるような話しだ。いや、教科書を実践に生かすのがいかに難しいかはわかっている。世の中はいろいろあって、必ずしも教科書通りにはならないこともわかっている。それでも、それぞれのストーリーでどうにかならないのかという気持ちが高まってくる。
その怒りの連鎖を断ち切ったのが中国出身の女性だった。受け入れる許容範囲が広いのか、受け止め方が染み付いているのか。言葉を正確に把握できなかったのではないかとおちゃかしが入るかもしれないが、それも回避する方法の一つであることに変わりはない。海外旅行の自分に置き換えてみるとわかりやすい。早口の外国語で迫られても細かいニュアンスまではわからないし、意味を把握しようと聞き返して危ない目にあってもつまらない。海外でも日本でも、まずは危ない場所には行かないように気を付けているつもりだし、察知したらそこから離れるようにはしているのだが……
物語では怒りの連鎖はときに5倍に膨れ上がっていた。まるでウイルス感染が拡大するかのようだった。新型コロナウイルスは中国の武漢で最初に感染が確認され、アメリカやイギリスでワクチンが開発されたが、この怒りの連鎖はアメリカで発生し、中国出身の女性でその一つのルートが閉じられていた。ここにも作家のアイロニーがありそうだ。
昨年から今年にかけて、マルチバースを取り上げた映画やストーリーが目立ったような気がする。人生の中で重要な選択がいくつもあるが、別の選択をした自分が並行して存在し、時にそちら側の自分にワープしてしまうというのがマルチバースだ。昨年のアカデミー賞で7冠を獲得した「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」がそうだったし、アニメ版の「スパイダーマン」もそうだった。
乙野四方字さんの「僕が愛したすべての君へ」「君を愛したひとりの僕へ」は両親が離婚した時に、どちらに付くかで違った人生を歩む姿が映し出されていた。興味や得意なことは似ているけれど、周りの人間との関係性が歳を重ねるにつれて変化していく。研究員どうしだった相手が事実婚で同じ家に住むほどの仲になっていたりする。その中の「虚質科学」がマルチバースのことだ(と思っている)。
今年、前編と後編に分けて上映された「デッドデッドデーモンズ・デデデデデストラクション」は親友を亡くすか人類が滅亡の危機に直面するかの選択だった。本当だったら後戻りできない世界に戻ることができたとしても、別の悲劇が現れる。深く心をえぐられる作品が多い。
平野啓一郎の「息吹」は息子を迎えに行ったが間違えて早く着いてしまったところから話しが始まる。時間をつぶすのに和菓子屋のかき氷を食べたかったが満席で、普段だったら入らないマクドナルドに切り替えた。偶然近くに座っていた客が大腸検査を話題にしているのを耳にしてしまった。気になって検査を受けるが切除したポリープの一つは悪性だった。切除して問題はないはずだったが、その意識が薄れ、和菓子屋で食べたかき氷を思い出す瞬間があった。そしてその頻度が増えていく。そのことを何度も口に出すようになり妻にも飽きれられてしまう。マルチバースと言えば様々な選択が重なってたくさんの世界に広がっていくのに、平野啓一郎のマルチバースは分岐の片方が主で、もう片方の分岐は収斂される運命にあった。神様から「ちょっと手違いがあったから、元に戻しておくね」と軽い感じで言われたみたいに……
うたたねから目覚めた妻は聞かされていた口癖を夢の中のことのように感じていた。近くにいた子供に「お父さんは?」と聞くと、子供は不思議そうな顔をした。
自殺願望の男がいた。自分で死のうとしているわけではないが、同じことだ。
彼には兄がいた。
両親は兄を褒めそやし、彼は疎んぜられていた。
両親に認められたいと学校で良い成績をとっても、兄への当てつけと言い掛かりを受けた。
この家族は歪な精神構造を持っていた。いまの時代であれば、イジメ構造である。
人生に絶望していたであっただろう。新宿区役所の係員は中田さんという女性で、彼の相談を受けた彼女は申請してから誰でもいいから三人を殺せば死刑になれると説明した。二人でもいいが、担当者の判断にもよるから確実に死刑になるには三人がいい。殺人事件の判決のようだ。
彼は学校に通っていた頃、美術室で一つのポスターを見ていた。ドガの自画像のポスターだった。自画像はまっすぐ前を見ないのはなぜか、はずかしいからかと美術の先生に聞く。鏡を見ながら描くとなると顔の方向はどうしても斜めになってしまう。それでもその先生はしばらく考えてからそうかもしれないと考えを否定しなかった。そういう視点もあったのかと逆に彼に気づかされた。彼に教師になりたかったのかと聞かれ、彼女は彼が卒業してから先生を辞めイラストレーターになっていた。
サバイバルナイフをカバンに入れて美術館に向かった。年老いた女性ばかりだった。一人も刺せないで美術館を出た。別のところで無差別殺人事件が起こった。警察が容疑者の自宅を捜索し犯人のことが明らかにされていく。テレビの情報番組ではもっともらしいが的を射ない解説が流れていた。
その男は自分のことのように感じ、この現象に嫌気が差した。新宿区役所には申請を取り消した。
美術館は国立西洋美術館だった。でもドガの自画像はそこにはない。有名なのはオルセー美術館が所蔵している。
平野啓一郎の「富士山」には
富士山
息吹
鏡と自画像
手先が器用
ストレス・フリー
の5編が納められている。
(2024年12月5日)